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  11 ,2017

私が選んだ著名人の有益な言葉を「せいどんの『選言集』」として、できる限り毎日書いていきます。お楽しみに・・・少しでもお役に立てば幸甚です。本当は自分に言い聞かせるため・・・。


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seidon

Author:seidon
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写真は、ハリウッドにて・・・。

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02

Category: アラン

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悲観主義は気分に、・・・
こんにちは、「選言集」(600)です。

アラン(1868-1951)(フランスの哲学者)

■「悲観主義は気分に、楽観主義は意思による」

 哲学者アランは、20世紀前半を代表する知性の一人である。 主著には『幸福論』がある。信念固きヒューマニストであり、当時「現代のソクラテス」と呼ばれた。大学の教授になることもできたが、生涯を高等学校の一教師として送っている。彼はひ弱な知性でも教育者でもなかった。
 日々起こってくる問題と格闘し解決を見い出し、それを簡潔な記事にして地元の新聞に掲載もした。教育以外に自身の鍛錬の場を持ち、それが教育にもますます磨をかけた。アランの教室はアンドレ・モーロア、ジャン・プレボー、シモーヌ・ヴエーユら数々の逸材を送り出した。アランが83年の生涯で私が出会ったただ一人の『偉人』」と尊敬した人がいた。
 それは、高等学校の時の師ラニョーであった。アランがラニョーと出会ったのは18歳の時であるが、ラニョーから現実社会のなかで生きた哲学を学んだ強烈な印象は生涯すこしも新鮮さを失うことがなくますます強くなる。アランは回想して言っている ”哲学者は朝ごとに二重の目覚めをする”と。
 アランは師ラニョーのもとで毎日新鮮な感動の連続であったにちがいない。

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Category: 佐藤一斎

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喜気は猶お春の如し・・・
こんにちは、「選言集」(591)です。

佐藤一斎(1772~1859)(幕末の思想家)

■「喜気は猶お春の如し。心の本領なり」

 安永元年10月20日(1772年11月14日)、岩村藩家老・佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の藩邸下屋敷内で生まれた。寛政2年(1790年) より岩村藩に仕えた。12、3歳の頃、井上四明の門に入り、長じて大坂に遊学、中井竹山に学んだ。寛政5年(1793年)に、藩主・松平乗薀(のりもり)の三男・乗衡(のりひら)が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ、当主(大学頭)として林述斎と名乗った。
 一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門する。文化2年(1805年)には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、広く崇められた。当然、朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂など、いずれも幕末に活躍した英才がいる。
 同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄」では、無実の罪で窮地に落ちいった渡辺崋山を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々(特に明治以降)「言行不一致」と批判される事となった。
 安政元年(1854年)の、日米和親条約の締結交渉では、大学頭・林復斎(述斎の六男)を補佐している。安政6年9月24日(1859年10月19日)、88歳で死去した。


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Category: エジソン

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あらゆる物に・・・
こんにちは、「選言集」(590)です。

エジソン(1847~1931)(アメリカの発明王)

■「あらゆる物に宝石が隠されている」

 オハイオ州ミラーンに生まれる。8才の時、わずか半年で学校を退学。12才でグランドトランク鉄道の新聞売り子となり、世界初の車内新聞「ウィークリー・ヘラルド」創刊。15才の時、マウントクレメンツ駅・駅長の息子を列車事故から救い、電信技術を学ぶ。16才~21才、通信手としてアメリカ、カナダをまわる。
 21才の時電気投票記録機で最初の特許を取る。22才の時ティッカー(株価表示機)の特許を申請。23才の時、ウエスタンユニオン社にティッカーの特許を4万ドルで売る。25才で自動電信機、二重交信・四重交信システム、電気ペン、複写機の研究を開始。29才の時メンロパークに研究所を設立。30才の時電話機完成。
 「ハロー」の挨拶を発明。蓄音機を発明。31才で「エジソン電灯会社」設立。32才で炭素フィラメントの白熱電球の実験に成功。12月メンロパークの工場で白熱電球を一般公開。
 33才の時探検家ムーアーを日本に派遣。京都、八幡男山付近の竹がフィラメント素材として最適と判断。発電機の制作。電気照明用のシステム発明。初の電気機関車実験に成功。1881年(34才)、「エジソン電気照明会社」設立。パリの電気展で「名誉賞」受賞。1882年(35才) 中央発電所スタート。37才で、エジソン効果(真空管発達の基礎)発見。
18 87年ニュージャージー州ウェスト・オレンジ研究所設立。1888年改良型蓄音機の完成。エジソン系列会社が合併し、「エジソン・ゼネラル・エレクトリック」社が発足。1889年キネトスコープ発明。パリ博覧会へ出展。43才で、鉱山事業に取り組む。1892年(45才) X-線の研究。「エジソン・ゼネラル・エレクトリック」社と「トムソン・ハウストン」社合併。「ゼネラル・エレクトリック(GE)」社となる。エジソンは辞任。
 1898年(51才) 鉱山経営の失敗。1900年(53才) アルカリ蓄電池の研究開始。1901年(54才) セメント事業を始める。1908年(61才) 活動写真特許会社の設立。62才の時、アルカリ蓄電池の完成。1914年(67才) 研究所が火事になる。
 再出発宣言。1922年(75才) 「ニューヨーク・タイムズ」紙の投票で「最も偉大な生きているアメリカ人」に選ばれる。1927年(80才) 人工ゴムの研究。1929年(82才) 白熱電球発明50周年記念祝賀会が世界各地で開催される。1931年(84才)、死去。


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Category: ガンジー

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宗教なき生活は・・・
こんにちは、「選言集」(589)です。

ガンジー(1869~1948)(インド独立運動の指導者)

■「宗教なき生活は舵なき船」

ガンジーは、1869年にインド西部カチアワル地方のポルバンダルに生まれた。両親は敬虔なヒンドゥー教徒で、幼いころから宗教に親しむこととなる。ガンジーは弁護士を志し、19歳になった1888年ロンドンに留学する。
 やがて彼は南アフリカに渡り、そこで有色人種に対する差別を経験、1906年ころには、彼は激しい抗議行動を開始するが、その手法は非暴力主義に立つ不殺生(アヒンサー)を基調とするものであった。1913年10月には、南アフリカのナタール州からトランスバール州への「サチャグラハ行進」を展開、世界的な共感を呼んだ。
インドに帰国したのは、1915年のこと。労働運動とともに独立運動に従事し、インド国民会議派の指導者として活躍する。また、1930年には塩専売法反対のための「塩の行進」等を指導している。この間、彼はしばしば投獄されたが運動を継続、独立と民族・宗教を超えた国家統一を目指した。独立後も、彼はイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和に挺身したのである。しかし、狂信的ヒンドゥー教徒に暗殺されるという悲劇的な最期を遂げた。

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Category: ロマン・ロラン

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私は世界に二つの宝を・・・
こんにちは、「選言集」(588)です。

■「私は世界に二つの宝を持っていた。私の友と魂と」

ロマン・ロラン(1866~1944)(フランスの文豪)

 ロマン・ロランは1866年フランスの中部クラムシーに生まれた(父は公証人)。パリの高等師範学校に学び、歴史を専攻、優秀な成績で卒業し、選ばれて二年間ローマに留学。文学博士の学位を得、母校で、ついでパリ大学で音楽史を講じた。また演劇に志し、多くの戯曲を書いたが、十分な成功をおさめるにいたらなかった。
 彼の文名をいちやく世界的に高めたのは大河小説『ジャン-クリストフ』である。フランス・アカデミーは文学大賞を彼に授け、ついで1915年度のノーベル賞がおくられた。
 二度の世界大戦を通じて戦争反対と平和のための社会組織の変革を世界に訴え、ファシズムと戦い、
 また生き方に悩んでいる万人のこころを慰め励ます文学や手紙を絶えず書きつつ、平和回復の前夜に世を去りました。敗戦後の混乱した日本で、実に多くの若者たちは、たましいの拠りどころとして、むさぼるようにロマン・ロランを読み、語り合い、その熱気は全国各地に拡がった。

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Category: セネカ

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価値ある書物だけに・・・
こんにちは、「選言集」(587)です。

■「価値ある書物だけに親しめ」

セネカ(BC4~AD65)(古代ローマの哲学者)

哲学者、劇作家。スペインのコルドバに生まれる。幼いころローマに上って、修辞学と哲学を学び、とくにストア哲学に多大の関心を示した。財務官から元老院議員になったが、卓抜した弁論はカリグラ帝の嫉妬を買い、あやうく死刑を免れた。
クラウディウス帝の下で41年追放され、失意の8年をコルシカ島で過ごす。49年ネロの母アグリッピナに呼び戻されて、幼いネロの教育を任された。ネロの即位後も若い皇帝を補佐して善政に導き、55年執政官に任命される。
しかし、一方には敵も多く、加えてネロの暴虐にも身辺の危険を感じるようになり、病と称して引退を願い出た。その後閑雅な文筆生活に入るが、65年ピソの陰謀発覚の件に連座、死を命じられる。
ストア派の哲人にふさわしく、平静に自決したと伝えられる。現存する作品は、「人生の短さについて」「心の平静について」「幸福な人生について」などのいわゆる『道徳論集』12編、および『自然研究』がある。


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Category: シェークスピア

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逆境によって真に・・・
こんにちは、「選言集」(586)です。


■「逆境によって真に精神が試される」


シェークスピア(1564~1616)(イギリスの劇作家)

 ウィリアム・シェイクスピア(1564年~1616年)は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、最も優れた英文学の作家とも言われている。また彼ののこした膨大な著作は、初期近代英語の実態を知る上での貴重な言語学的資料ともなっている。
 出生地はストラトフォード・アポン・エイヴォンで、1585年前後にロンドンに進出し、1592年には新進の劇作家として活躍した。1612年ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残した。
 「ヴィーナスとアドーニス」のような物語詩もあり、特に「ソネット集」は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。2002年BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第5位となった。



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Category: フォーブス・マンロー

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我が大学の誇るべき歴史とは・・・
こんにちは、「選言集」(585)です。


■「我が大学の誇るべき歴史とは、結局、大学の教員や卒業生が『どういうことをしたか』という業績です」


J・フォーブス・マンロー(1940~)(グラスゴー大学名誉教授)

 グラスゴー大学名誉教授。アフリカ経済史研究の第一人者。1940年、スコットランドのハイランド地方に生まれる。エジンバラ大学在学中、師と仰ぐシェパーソン教授との出会いを機にアフリカ経済史の取り組むようになる。 アメリカのウィスコンシン大学に留学し、博士号を取得。24歳で独立直後のケニアに渡り、ナイロビ大学で研究に従事した。帰国後、グラスゴー大学の社会学部長、評議会議長などを歴任。創価大学からの留学生たちをシルビア夫人と共に暖かく受け入れるなど、両大学の交流にも尽力した。
 著書に『アフリカ経済史』(北川勝彦訳、ミネルバ書房)等がある。


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Category: ダヴィンチ

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いかなる障害も・・・
こんにちは、「選言集」(584)です。


■「いかなる障害も私に強い決意を生みだすまでだ」


ダ・ヴィンチ(1452~1519)(イタリアの万能天才)

イタリア・ルネッサンスを代表する偉人。本業は画家であるが、その業績は一言では表現できない「万能の天才」である。出身地はイタリアのヴィンチ村。レオナルド・ダ・ヴィンチとはヴィンチ村のレオナルドという意味である。
 彼の残したノートには、おびただしい量の工学、医学、天文学、流体力学、幾何学、音楽などのアイディアが、芸術的な図とともに記されている。ノートに書かれた文字は鏡に写したように左右が反転しているのもおもしろい。
菜食主義者であったとか同性愛者であったなどの説もあるが、定かではない。 注意欠陥・多動性障害(ADHD)であったともいわれている。彼の好奇心は一つの所に留まっていてはくれなかったのだろう。そのため完成した絵画は数少ないが、その作品には孤独な叡知が冷たく光る。


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Category: リルケ

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永遠を感じる者は・・・
こんにちは、「選言集」(583)です。

■「永遠を感じる者はあらゆる不安を超越している」



リルケ(1875~1926 )(オーストリアの詩人)

 ライナー・マリア・リルケ(1875年12月4日 - 1926年12月29日)は、オーストリアの詩人、作家。シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールとともに時代を代表するドイツ語詩人として知られる。プラハに生まれ、プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表し始める。
 当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を発表していたが、ロシアへの旅行における精神的な経験を経て『形象詩集』『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだした。1902年よりオーギュスト・ロダンとの交流を通じて彼の芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表、それとともにパリでの生活を基に都会小説の先駆『マルテの手記』を執筆する。
 第一次大戦を苦悩のうちに過ごした後スイスに居を移し、ここでヴァレリーの詩に親しみながら晩年の大作『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』を完成させた。『ロダン論』のほか、自身の芸術観や美術への造詣を示す多数の書簡もよく知られている。



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